2009年8月19日水曜日

電波塔を聞きながら

はてさて。ここ最近いろいろとやりたいことしてたらちょいと考え込んでしまった。
「小さい頃は新しい発見があって小さなこと一つ一つが初めてで楽しい。でも大人になるにつれていろんなことを知ってしまって発見がなくなって昔みたいに無邪気に笑えない」
とかいうこと。
でも今や(自分が理系だからこういうの例に出すけど)研究とかで科学は常に発見の繰り返しだしヒトゲノム解読計画なんてそれこそ解読しただけで大して何かに利用できることはまだ今から発見・実現できることであって(ちょっと話ずれた)探してるのが自分じゃなくて他人だからはしゃげないわけであってそれって大人としてどうよ?って。
自分で探してる人つまり研究者的な人ってすごく知識も深くてよく言う頭がいいって人だと思うけど実は子供に一番近いんじゃないかなぁ。いい意味で。大人ぶってそんなの無駄無駄ってすぐ言っちゃう人ってのが頭が悪いっていう表現に当てはまったりしないのかなぁ。その辺は言葉を使う人によりけりか。

まぁでもこういうのは日常ではないから確かにそうそう「無邪気に笑う」とかいうのは簡単じゃないのかもなぁ。

知らない方が無邪気になれる
だから無知もまた幸せだとか?
それはなんだか納得かも。だからと言って無知を尊重したりしないけど。


どうでもいいけど私は気を許した人の目の前じゃないとそうそう無邪気に笑わない。
あと自分と似てる人とか。あと心を許さないといけないときとか。でもそんときはいわゆる「つくり」ってやつか。 ま、結構範囲広いけども。
どうでもいい人に無邪気に笑うなんて器用なことできないし、しない。誰にでも無邪気に笑いかける人、すごいと思うけどそういう人ほどぽろっとこういう扉の狭い人に裏の本音こぼしちゃったりする。(意外に気にいられたりするときがある。)どっちもどっちなんかなぁ。結局バランス?



この前読んだ本で気に入った言葉。
「明日死ぬとしたら生き方が変わるんですか?あなたの生き方はどれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」

0 件のコメント:

コメントを投稿